2012年8月19日日曜日

鼠ヶ関の地名について

 荘内地方の地名についてまとめられた大沼浩氏は、「荘内 地名 切絵図」のなかで、これまで出された地名辞典について内容的、形式的に多くの誤りがあることを指摘されています。
 地名はだれかが初めて付けたときには、ちゃんとした形と意味があったに違いないが、それが現在でも分からないのが大半ですと書かれています。地名はあまりにも身近かで日常的なものですから、かえって起源や意味が忘れられ、形がくずれ―転訛という―長い年月を経たので、命名に関係のあった当時の環境の変化もあるでしょうし、地名の研究は古い記録をたどって、始源の形を究きとめればよいのですが、荘内地方には古い記録がないようで、従ってできることは、わからないのは転訛の結果として、現在の形から元の形を推定することぐらいですと大沼氏は書かれています。
 さて、大沼浩氏は前記「荘内・地名・切絵図」を書き終えたあとで、鼠ヶ関の地名の一考として次のようにまとめられている。
 「鼠ヶ関の地名については、本文中に諸説をあげた。鼠が食った跡のような穴があいている石からというのや、寝ずに張番をした関所、また根締が関からの転、山の根岸なるみなどで根津の説である。
 そうしたなかで、まず初めに角川日本大辞典に「一一世紀に成立した歌学書「能因歌枕」の出羽の部のはじめに「ねずみの関」とあるのが文献上の初見である」と紹介しており、また、「義経記」(室町時代に成立した源義経一代記)に書かれた「義経一行が、念種関(ここでは念種関とでてくる)を通過したことであるが、(吉田東吾は、義経記は物語と決め付け信ずることはできないが、一古典であるとしており、義経の奥州落ちは、文治二年(一一八六)とされているが、義経記の成立は、室町時代の初期ということなので、二百年以上後になる。
 ところが能因歌枕の「ねずみの関」は、一一世紀とのことなので、角川の言うことが正しければ、逆に百年ほど遡ることになる。
 また、義経記が関を通ってから、はらかい(原海はらみ)という所に着いたとするのは、現在の位置と相違する。新潟県との県境から鼠ヶ関駅あたりまでが原海であり、さらに港に添って鼠ヶ関川を渡って北進して念珠関跡に達する。
 こうしたなかで、昭和四三年の「古代鼠ヶ関址」および「同関戸生産遺跡」の発掘調査は、関所が越羽の境にあったことが確認され、義経記に言う関所を通って原海についたことが裏付けられた。
 爾来、鼠ヶ関は、古代から越後と出羽(羽前)との境界として続くことになったものであると考えられ軍事的な地名としても重要な地点だった訳である。
 大沼氏は結論として次のように述べている。
 この関は、京、鎌倉の南と、出羽、陸奥の北を分けるものであった。これは「南」最北端であり、北陸道の北限であった。そしてその位置に、北からの侵入を防ぎ、南からの逃亡を妨げるために、関が置かれたものである。だから鼠ヶ関は、山形県の荘内地方の地名としては、考えてはいけないのである。
 こう考えられると、「ねずみの関」のねずみは、自ら正体を現すであろう。これは「子の関」なのである。子は北方を意味するのである。私の考えでは越の国の最北端に置かれたのが、子の関であり、これが「ねずみの関」になり、「鼠ヶ関」になったのであろうと思われる。
 発想の転換―今までは鼠ヶ関は、山形県の地名であることにこだわって南から見ることができなかったのであろう。

  参考資料
    角川 日本地名大辞典 六 山形県
    日本歴史地名大系  山形県の地名   平凡社
    荘内地名切絵図   大沼浩著  雪山杉荘書房
    地名語源事典   校倉書房
    日本地名大辞典 上、下   新人物往来社 

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